2011年6月23日木曜日

神出山田自転車道~姫路明石自転車道@摩耶山ヒルクライムクラブ

ルート:北神急行谷上駅 - 有馬街道 - R428 - r85 - 神出山田自転車道 - r85 - r38 - r20 - 農道 - 加古川右岸自転車道 - 姫路明石自転車道 - r718 - JR明石駅

距離:65.7km
最大標高差:245m
獲得標高:182m



いきなりの土砂降りに遭ってみたり

河原のマウンテン遊びでサングラスを無くしてみたり
 

輪になってみたり

カッコつけてみたり

サイコンをいじっていて膝を割ってみたり

色々とハプニングも有りましたが、無事打ち上げ三連発を迎えることが出来ました。





2011年5月1日日曜日

磐船神社

Felt F95 Team Issue
距離:105.1km
最大標高差:125m
獲得標高:322m

2011年4月23日土曜日

四条畷神社

GIANT WARP RSTWO改
距離:87.2km
最大標高差:47m
獲得標高:150m

2010年11月17日水曜日

五條楽園


ちくしょー、パンクしやがった。

2010年10月20日水曜日

リフレクター

ここんとこボクが山から離れていたのは、ペダルをエッグビーターに換えたから、ってことが少なからずあったはずだ。

前に付けていたSPDでなら、辛うじてトレランシューズで漕ぐことも出来なくはなかったのだが、エッグビーターでは、それすら辛かった。ビンディングシューズであっても、はめ損ねると、クルッと回り込み、脚を踏み外すような小さな小さなビンディングを、普通のスニーカーで漕ごうなどとは土台無理な話だったのだ。
もちろん、ビンディングシューズで登山する、なんてのは、ナンセンスな事でしかなく、仕方なくバイク用トレッキング用と、ふたつの靴を持ち歩かなければならない、なんて事は、より一層、馬鹿げた話でもあった。

それを解決すべく買った"リフレクター"というか、偶偶見付けたから付けてみたワケなのだが。
それは、見た目から予想できるように、踏み込む毎にしなるような柔らかさ、そして、グリップすることを目的にした造りでは全くないで、滑る滑る、といった漕ぎ心地である。
もちろん、アルとナシとでは大違いではあるので、この、あくまでも便宜上、用意されたような簡易なペダルを用いて、これからは山へと勤しもうかと思ったりもする。

2010年10月13日水曜日

太子ちゃんマジ天子

上之太子(磯長山叡福寺)、中之太子(青龍山野中寺)、下之太子(椋樹山大聖勝軍寺)。
それぞれ個別には幾度か参拝したことはあるのだが、通しとなると初めての事だった。
今回のポタリングでこのルートを選んだのは、ボクの家から120kmほどの道程で、未だ決まらないバイクのセッティングには丁度良いかなって感じだったからだ。本当は、暗がりヒルクライムリベンジといきたかったのだが、今の状態では無理そうなので止めておく。それは、ここでは未だ書いてはいないのだが、香川でのヒルクライムで膝を痛めた不安が頭を過ぎったからだった。
またもや時系列が無茶苦茶ではあるが、その時の経験を活かしての変更点は、と云えば、"サドルを数ミリ上げる"、"左足のクリートを数ミリ下げる"の二点である。一番大切そうな尿道への圧迫は、サドルを変えないことにはどないしようもない、と云った金銭的な問題故、今回は放っておくことにした。

下之太子
"椋樹山大聖勝軍寺と称し、高野山真言宗に属し、叡福寺(太子町)に対して、「下の太子」という。
聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、四天王に祈願、その加護によりいくさにかったので、この寺を建てたという。
明治二十一年(一八八八)の台風で大堂(地蔵堂)が倒壊し、昭和四十六年復興が計画、旧太子殿の背後に新太子殿が建った。
本尊は如意輪観音(府重要文化財)で寺宝も多い。門前に守屋池、付近には鏑矢塚、弓代塚、市民病院前には物部守屋大連墳がある。

中之太子
"当寺の創立は蘇我大臣といい、また聖徳太子建立四十六院の一とも称するところから、叡福寺の「上の太子」将軍寺の「下の太子」に対し「中の太子」と俗称せられている。所在地の旧郷名が野中郷であってその地名による俗名を野中寺といい『日本霊異記』には野中堂と記している。また正倉院文書によれば当郷は百濟系渡来系氏族船史のちの船連の本貫であったから、その氏寺であったことが察せられる。
その創立年代は境内出土屋瓦から飛鳥時代にあることが考えられる。
境域には良く旧伽藍跡の土壇および礎石配列を止めるが、対向する東の金堂と西の塔婆とを中心とするもので、その伽藍配置は野中寺式とでも称すべき特色あるものである。なかんずく塔跡の刹柱礎石は刹柱の四柱座の周囲三方に添柱のそれをも彫り加えていて当市古市の西琳寺、法隆寺創建伽藍、橿原市橘寺等のそれに類例があり、ことにその舎利納置施設として柱穴側面に横穴を穿っているのが注目される点である。
なお創建当寺の軒丸瓦には弁上に忍冬文を配した特色あるものも含まれている。
当寺の現堂宇は享保年間以降、律僧恵猛により狭山藩主北条氏を檀越として再興されたもので、その僧堂は簡素な建物ではあるが、めずらしい遺構である。
なお、僧恵恵猛は現寝屋川市太秦の秦氏の出身であって『律苑僧宝伝』『日本高僧伝』等の伝記に載録されている高僧である。"

上之太子
"叡福寺は、推古天皇が聖徳太子のお墓を守るために建立され、のちに聖武天皇の勅願で七堂伽藍が完成されたと伝えられています。平安時代以後、聖徳太子信仰の霊場として栄えましたが、戦国時代末に織田信長の兵火にかかり焼失しました。江戸時代に豊臣秀頼によって聖霊殿が再建され、次第に整備がすすみました。毎年4月11日の太子のご命日に行われる会式は「太子まいり」と呼ばれ、多くの参詣者でにぎわいます。"

膝は痛まずサドルはOKっぽいのだが、足裏はまだ鈍く痛み出した。中敷を換えねばならないか?





2010年10月7日木曜日

明石海峡大橋


明石 浜の散歩道より明石海峡大橋を望む