2010年10月20日水曜日

リフレクター

ここんとこボクが山から離れていたのは、ペダルをエッグビーターに換えたから、ってことが少なからずあったはずだ。

前に付けていたSPDでなら、辛うじてトレランシューズで漕ぐことも出来なくはなかったのだが、エッグビーターでは、それすら辛かった。ビンディングシューズであっても、はめ損ねると、クルッと回り込み、脚を踏み外すような小さな小さなビンディングを、普通のスニーカーで漕ごうなどとは土台無理な話だったのだ。
もちろん、ビンディングシューズで登山する、なんてのは、ナンセンスな事でしかなく、仕方なくバイク用トレッキング用と、ふたつの靴を持ち歩かなければならない、なんて事は、より一層、馬鹿げた話でもあった。

それを解決すべく買った"リフレクター"というか、偶偶見付けたから付けてみたワケなのだが。
それは、見た目から予想できるように、踏み込む毎にしなるような柔らかさ、そして、グリップすることを目的にした造りでは全くないで、滑る滑る、といった漕ぎ心地である。
もちろん、アルとナシとでは大違いではあるので、この、あくまでも便宜上、用意されたような簡易なペダルを用いて、これからは山へと勤しもうかと思ったりもする。

2010年10月13日水曜日

太子ちゃんマジ天子

上之太子(磯長山叡福寺)、中之太子(青龍山野中寺)、下之太子(椋樹山大聖勝軍寺)。
それぞれ個別には幾度か参拝したことはあるのだが、通しとなると初めての事だった。
今回のポタリングでこのルートを選んだのは、ボクの家から120kmほどの道程で、未だ決まらないバイクのセッティングには丁度良いかなって感じだったからだ。本当は、暗がりヒルクライムリベンジといきたかったのだが、今の状態では無理そうなので止めておく。それは、ここでは未だ書いてはいないのだが、香川でのヒルクライムで膝を痛めた不安が頭を過ぎったからだった。
またもや時系列が無茶苦茶ではあるが、その時の経験を活かしての変更点は、と云えば、"サドルを数ミリ上げる"、"左足のクリートを数ミリ下げる"の二点である。一番大切そうな尿道への圧迫は、サドルを変えないことにはどないしようもない、と云った金銭的な問題故、今回は放っておくことにした。

下之太子
"椋樹山大聖勝軍寺と称し、高野山真言宗に属し、叡福寺(太子町)に対して、「下の太子」という。
聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、四天王に祈願、その加護によりいくさにかったので、この寺を建てたという。
明治二十一年(一八八八)の台風で大堂(地蔵堂)が倒壊し、昭和四十六年復興が計画、旧太子殿の背後に新太子殿が建った。
本尊は如意輪観音(府重要文化財)で寺宝も多い。門前に守屋池、付近には鏑矢塚、弓代塚、市民病院前には物部守屋大連墳がある。

中之太子
"当寺の創立は蘇我大臣といい、また聖徳太子建立四十六院の一とも称するところから、叡福寺の「上の太子」将軍寺の「下の太子」に対し「中の太子」と俗称せられている。所在地の旧郷名が野中郷であってその地名による俗名を野中寺といい『日本霊異記』には野中堂と記している。また正倉院文書によれば当郷は百濟系渡来系氏族船史のちの船連の本貫であったから、その氏寺であったことが察せられる。
その創立年代は境内出土屋瓦から飛鳥時代にあることが考えられる。
境域には良く旧伽藍跡の土壇および礎石配列を止めるが、対向する東の金堂と西の塔婆とを中心とするもので、その伽藍配置は野中寺式とでも称すべき特色あるものである。なかんずく塔跡の刹柱礎石は刹柱の四柱座の周囲三方に添柱のそれをも彫り加えていて当市古市の西琳寺、法隆寺創建伽藍、橿原市橘寺等のそれに類例があり、ことにその舎利納置施設として柱穴側面に横穴を穿っているのが注目される点である。
なお創建当寺の軒丸瓦には弁上に忍冬文を配した特色あるものも含まれている。
当寺の現堂宇は享保年間以降、律僧恵猛により狭山藩主北条氏を檀越として再興されたもので、その僧堂は簡素な建物ではあるが、めずらしい遺構である。
なお、僧恵恵猛は現寝屋川市太秦の秦氏の出身であって『律苑僧宝伝』『日本高僧伝』等の伝記に載録されている高僧である。"

上之太子
"叡福寺は、推古天皇が聖徳太子のお墓を守るために建立され、のちに聖武天皇の勅願で七堂伽藍が完成されたと伝えられています。平安時代以後、聖徳太子信仰の霊場として栄えましたが、戦国時代末に織田信長の兵火にかかり焼失しました。江戸時代に豊臣秀頼によって聖霊殿が再建され、次第に整備がすすみました。毎年4月11日の太子のご命日に行われる会式は「太子まいり」と呼ばれ、多くの参詣者でにぎわいます。"

膝は痛まずサドルはOKっぽいのだが、足裏はまだ鈍く痛み出した。中敷を換えねばならないか?





2010年10月7日木曜日

明石海峡大橋


明石 浜の散歩道より明石海峡大橋を望む

2010年10月5日火曜日

ドンデン山ヒルクライム(梅津ルート)



距離:12.9km(上り:11.7km 下り:250m)
最大標高差:848m
平均斜度
上り:7.2%
下り:1.6%
Time:retire(2h 06min休憩、歩行含)

早朝。81号線へと曲がる交差点の手前。そこに掲げられた電光掲示板は、ドンデン山山頂より入川方面の全面通行止を告げていた。
今日の予定では梅津からドンデン山を越えて入川に入り、海岸線を辿って小木港まで走るつもりだったのだが、いきなりのつまずきだった。

81号線へ入り坂を登っていく。梅津の集落はちょっとした高台になっており、そこを抜けて下ると、のどかな田園風景が拡がっていた。
川沿いに続く道。その先には大佐渡山脈が悠然と横たわっている。あの辺りがドンデン山だろうか?あんなとこまで登らなければならないのか?そんなこと考えただけで気が滅入ってくる。大体、ヒルクライムなんてシンドイもんは、そんなことを真剣に考えながらやってはダメだ。あと何百mだから何分くらい登らなければならない、なんて考えながらやっていたら、根性無しのボクなんかは、やっぱやめとこ、なんてすぐに諦めてしまう。何も考えずに鼻歌を歌うくらいの軽い気持ちでないとやってらんない。実際、ひたすら山を登り続けているときには、なにかしらの歌のフレーズが延延と頭の中で繰り返されている。それは山下達郎の"ヘロン"だったり、COMPLEXの"恋をとめないで"だったりで、何でその歌が突然浮かんできたりするのかは謎でしかないのだが、一度それが浮かんでくると思考はそこで停止される。無我の境地に近づいているとでも云うのだろうか。修験僧が苦行を積んで悟りを開こうとするのに近しいものがあるのかも知れない。ちなみにこの時は、アルプスの少女ハイジの"おしえて"だった。

山腹に点在する採石所を越えると、山道は急激に幅を狭め、それと同時に10%を越えるほどの急坂となった。距離こそ短いのだが、心を折るには十分な長さだった。なにより2リッター入りのお茶が、ボクの脆い腰を破壊していった。
坂を登り切るとそこはアオネバ渓谷の登山口であった。MTBを降り、お茶を浴びるように飲んで重量を減らす。先に続く道は緩く、そこからは少しは楽になりそうな様相を呈していた。流れ落ちる汗を拭い、折れた心を繋ぎ、"おしえて"を歌いながら、再びバイクに跨った。

そこからの道は先程までに急な坂はない。標高410m、570m辺りにあるフラット区間で足を休ませながら順調に上り続けていった。
遠く望む金北山こそ真っ黒な雨雲に覆われてはいたが、日本海と加茂湖に挟まれ、細く拡がる両津の街の美しさが気持ちを癒していった。

このままなら、最後まで行けそうだな、なんて淡い期待はあっけなく裏切られることとなった。山頂が近づくに連れ、舗装はアスファルトから亀甲印のコンクリートへと変わっていったのだった。このコンクリート舗装がクセもんだった。それはダートを漕いで登るほどに脚を消耗させていった。そして、牧草地へと向かうヘアピンを越えて迎えた10%程の勾配。もはや、ダンシングをするだけの気力も脚も残ってはいなかった。
もう、止めても良いよな、ひとりごちる。もう、限界だった。クリートを外し右足を伸ばす。爪先が路面に触れる。しかし、膝には力が入らず、そのままバイクを抱え込みながら倒れてしまっていた。

ヒルクライムをするなら、入川ルートの方が遥かに楽である。距離が長い分、勾配も一定に緩く、山頂までコンクリート舗装もない。沢沿いを伝う道は涼しく、体力の消耗も少ないだろう。ただ、牛糞が有り得ないくらいに撒き散らされているので踏まないように注意しなければならない。あと、土砂崩れのため、2010年8月現在、全面通行止である。

------------- おもいがき -------------

フェリーではバイクを輪行袋に入れると手荷物になるので片道1,000円くらい安くなります。